『冷たい夜の月の下』Cold night under the moon.


第1章 始まりの終わり〜a start〜

3.

 夜明け前。まだ太陽が地平線から頭も出さない時間帯。エルネストが床から身を起こすと、傍らのベッドにいるはずの人物がいなかった。
 マットレスにくぼみはほとんどなく、なぜか毛布がない。念のためにマットレスに前肢で触れてみると、まったく冷え切っている。
 伸び上がって器用に前足をノブにかけてドアを開けると、エルネストは人の気配を探して廊下に出る。いまだしんと静まった夜の空気のなか、爪が木板に当たるカチカチという音が妙に大きく聞こえた。
 エルネストがいるのは古びた教会である祈る者はとうに絶えているらしく、壁は黒ずみ、人の背丈ほどもある十字架もかしいでいる。死にかけた家屋の中で、無事な部屋は数えるほどしかない。それらを一つ一つ覗いてみるが人影はない。屋内をひと巡りして残すところは外と屋根裏部屋だけだった。エルネストはしばしの間こうべをめぐらし、屋根裏部屋から先に見ることにした。
 むずむずと出そうになるくしゃみを必死にこらえ、エルネストはなるべく息をしないように屋根裏部屋を覗き込む。ガラクタが押し込められた狭い空間は、長年のほこりが厚く積もり、動くたびに舞い上がる。奇跡的に割れていない薄汚れた窓ガラスから差し込む月光で粒子が白く輝いている。そのなかで、普段は天井付近に上げられている階段が下りていることに気がついた。階段を上った先には跳ね上げ扉がついている。
 ほこりを立てぬようにそろりそろりと部屋を横切り、階段を上る。背中で跳ね上げ扉を押し上げるように開けると、そこは屋根の上だった。
 先ほどとはうって変わって鼻の奥がスースーするほどの冷気が満ちている。11月の夜の大気には冬の予兆が色濃い。ところどころ上の板葺きがはげた屋根にぽっかりと開いた四角い穴。そこから顔を出すと、あっけないほど簡単に探し人は見つかった。
 三角屋根の端近く。小柄な体を毛布でくるみ、呼気は白い影となっている。
「琴音」
 エルネストが小さな声で呼びかけると、その人物ははじかれたように振り返る。よくも反動で落ちなかったものだ。
「エルネスト!
何やってるの?」
大きな黒い瞳を見開いて琴音は言った。
「そりゃこっちの台詞だ。びっくりしたぞ、起きたらいないんだからな。俺に気取られずに抜け出せるとは、お前さんには隠密の才能があるみたいだな」
 そうは言うものの、昨晩のヴァンパイア戦で受けた傷の治癒のために自然と眠りが深くなっていたのだろう。
「いつからいるんだ。風邪ひくぞ」
 足を滑らせないよう気をつけて――犬の体は高いところを歩くのには適していない――エルネストは琴音の隣に腰を落ち着ける。彼がぶるりと体を震わせたのを見てとって、琴音は毛布を開いてエルネストも一緒にくるみこむようにする。自然と密着し、琴音がエルネストを抱き込むような形になった。
「・・・琴音」
エルネストは身じろぎしかけたが、足場の悪さにあきらめる。
「今でこそ犬の姿なんぞしてるがな、一応、俺は精神的には人間なんだぞ。
しかもまだ若い」
「エルネストってあったかい♪」
「聞けよ、ひとの話」
 居心地悪げなエルネストなどお構いなしに、琴音は硬めの黒い毛並みをなでている。
「え、なに?」
「あぁ、もういい。あほらしい」
 琴音はエルネストの態度に首を傾げつつも、犬の耳の後ろやあごの下をかく手を休めない。
「で、何やってたんだ」
 夏の熱帯夜でもあるまいに涼んでいたわけではないだろう。
「見てたの」
 ぴたりと、エルネストに触れている掌が動きを止めた。
「わたしが生まれて、育った、そして、これから去る場所を」
 そう言う琴音の瞳は眼下に広がる夜闇に包まれた街並みを向いている。その声には別離を惜しむ悲色はあっても、再び戻れることを信じる楽色はない。それでも琴音の顔はひどくすっきりとした静かなものだった。
「・・・琴音。前にも言ったがな、妙な使命感やら責任感を感じてるなら――」
「違う」
 終いまで言わせずに琴音はエルネストの言葉をさえぎる。
「違うの。
ちゃんと自分で考えた。そして決めたの」
 決して声を荒げるわけではなく、むしろ淡々と続ける。
「エルネストたちに着いていくって、とても大変なことだっていうのは分かるの。だって、ゆきのさんとエルネストは吸血鬼を倒すために旅をしてるんだから。それに同行するってことは、いやおうなしにわたしも吸血鬼と戦わなくちゃならないわ。ダンピールのわたしを見捨てておいてくれるとは思えないもの。
だからね、ふたりに着いていかなくても、わたしはきっと近いうちにこの場所から出て行ってた。だってね、ダンピールは吸血鬼の結界を無視することができるでしょう。ていうか、そこに結界があるってことも分からないんだけど。そうなると、また今回みたいに気づかないうちに入っちゃいけないところに足を踏み入れてとんでもないことになっちゃうと思うの。お父さんとかお母さんとかわたしの知ってる人が傷つけられたり、今度こそわたしは殺されちゃったり。私だけが死んじゃうなら少しは救いだけど、でもやっぱり嫌だし。
エルネストたちみたいな助けが入るなんて本当にまれのまれよね。だから、この偶然を大いに利用することにするわ。今回みたいに命を狙われる理由が分からないままって言うのは癪だもの。そりゃぁ、エルネストやゆきのさんから説明はしてもらったけど、それだけじゃ納得できないの。きっと聞かされた知識だけじゃ理解できないもっとどろどろとして複雑なものがあると思うのよね。そういうのを知りたいの。知らなきゃいけないの。
自分に、それこそ命に関わることを知るチャンスがあるっていうのに、みすみす逃すなんてすごい御馬鹿さんだと思うわ。もうなんにもできない赤ん坊じゃないんだもの、自分に関することは自分が一番知っているべきなのよ。
こういうのも、妙な責任感や使命感のせいだって、エルネストは思うかもしれないわね。
でも、わたし本当によく考えたのよ。責任とか使命ってものにちょっとは後押しされているかもしれないけど。、でも、そういうのもひっくるめて、ふたりと一緒に行く、っていうのがわたしの出した答えなの」
 本当に一生懸命に琴音は自分の気持ちを言葉にしていた。
 不意に、こいつは生まれてから今一瞬までの約16年間を振り返りながら本当に必死で考えたんだな、とエルネストはしみじみ考えていた。16年、エルネストやゆきののように200年、400年と生きている者にとって本当にそれは些細な時間の流れだろう。それこそ、今後嫌というほど死線を見せてくれるだろうヴァンパイアにとってはウスバカゲロウの一生のようなものだ。その分、知識量などの差は比べるべくもない。それゆえに琴音を侮る、という長命者のおごりをもっているつもりはエルネストにはなかったが、それでもなにやらひどくばつが悪い。琴音は決して愚かではない。きちんと考える力を持っている。
「どうしたの?」
 黙りこんでしまったエルネストを覗き込む。犬の表情はよく分からないが、それでも琴音にはエルネストがなんだか少し困ったような顔をしているように見えた。
「いや、どうもない。
お前さんがここにいる理由は分かったが、そろそろ下に戻れよ。風邪をひかせるとゆきのがやかましいからな」
「お説教されるの? ゆきのさんに?」
 ゆきのは今夜、琴音の出立のための最後の仕事を行っている。できるかぎり琴音に関する記憶と記録を消しているのだ。法治国家であろうとも、意外に悟られずに個人情報の書き換え抹消はできる。
「あいつは妙に記憶力がいいからな。後々こっちが忘れてるようなことをほじくり返してくるんだ。それもあの笑顔でな。
ヴァンパイア講義の第一だ覚えとけ。あいつらはおおむね陰湿だ」
 けけけ、と犬の姿ではまったくもって奇怪な笑い声をあげる。
「う〜ん、もう少し。エルネストあったかいし」
「抱きつくなって」

 冷たい夜の月の下、別れと旅立ちがそこにはあった。

<第1章 了>

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