『冷たい夜の月の下』Cold night under the moon.


第1章 始まりの終わり〜a start〜

1.

 その日、すっかり陽も落ちた中を琴音は家路についていた。ブラスバンド部の練習が長引いてしまったからだ。運悪く同じ方向の友人はいない。
 自然と足は速くなり、靴底がアスファルトを叩く音が不安をあおる。だから明かりが煌々と灯った公園に着いたときいくぶん緊張が緩んでいた。そのため、普段なら真夜中であっても寄り添う人々が目に余るその場所で、今日に限って人気がまったくないことに不審を抱くことができなかった。
 うっすらと冷たい夜気が身を包み、冴え冴えとした月の下を歩いていく。
 琴音が足を止めたのは、先の街灯の下に抱擁する男女の姿を認めたからだ。男は女の首筋に深く顔をうずめ、女は酔ったように顔を上向け笑っている。人目をはばからぬその様子に、思わず琴音は頬を赤らめてしまう。なんとか迂回路を探そうと周囲を見回していると、不運なことに男と目が合ってしまった。
 ひと目で西洋人と分かるその男は柳眉を逆立て琴音に鋭い眼光を向ける。
「貴様・・・、なぜ入って来れた」
 てっきり逢瀬を見てしまったことに怒っているのかと思っていたら、そんな台詞を発する。
 琴音をねめつけ、男は女の体から手を離す。途端にどうと女は地面に崩れ落ちた。彼女は目を開いたままピクリとも動かない。のけぞった首筋の肌は青い静脈がくっきりと浮き出て見えるほどに白くなっている。その様相はひと目で尋常ではないことが分かるほどだった。
 琴音は男と目が合った。街灯の光を浴びて立つ男の口元は真っ赤に濡れている。
 倒れた女の体をまたぎ越えて男は琴音に近づいてくる。異様な雰囲気に呑まれ、琴音のひざは震え逃げることもできない。琴音は男は手を振り上げ、その長い爪がまっすぐに自分の胸元に吸い込まれるのを最後に意識を手放した。

 

 凄まじい悲鳴によって琴音の意識がわずかに戻る。妙に視界が暗くぼやけ、悲鳴の主がいったい誰なかは分からない。少なくとも琴音自身ではないのは確かなのだが。
「ち、逃げたか」
 聞き覚えのない男の声。
 不意に琴音の頬に何かが触れる。ひんやりとした柔らかなもの。それは決して不快ではない。
「よかった、まだ生きてます」
 そう言ったのは若い女の声。
 ひどい寒気が全身を覆い、そこで琴音の視界はふたたび暗転していった。

 

「お前はこの嬢ちゃんだと思うのか?」
「はい」
「どう見ても単なる人間の小娘だろ」
「ですがあなたも見たでしょう。彼女は結界をすり抜け、魅了の術にもかからなった。素質は十分です」
「そうか? ものの見事に一撃くらって死にかけてたぞ」
「それはまったく知識も技術もなかったんですから仕方がありません」
「だがなぁまだ子供だぞ」
「可能性がより大きいということですわ」
 琴音のすぐそばで男女が話し合う声がする。開いた目の視界が明瞭になるにつれ、会話の内容もはっきりと聞こえてくる。どうやら琴音のことを話しているようだ。何度かまばたきを繰り返すとようやく頭がはっきりしてくる。
「気がつきましたよ」
 白い顔が琴音をのぞきこんでいる。
「大丈夫ですか?」
「・・・頭が痛い」
 気遣わしげな顔にそう返事をする。
「貧血ですわ。たくさん血が流れてしまいましたから」
 起き上がりながらあらためて自分の体を見下ろしてみると、制服の胸元が大きく切り裂かれ赤黒い染みがべっとりとついている。
彼らがいるのは古びた教会のようだった。内装の荒れ具合から廃屋なのかもしれない。琴音を介抱していた若干年かさとおぼしき17、8歳の少女は、面立ちから西洋の血が流れていることが分かる。驚くほどに肌が白く、さらには緩やかに波打つ長い髪も白。着ているものも真っ白で、ただ一点、両の瞳だけが対称的に黒である。ひどく美しい少女だったが、その分左手の甲に刻まれた十字の傷が痛々しい。その少女の傍らには一匹の犬。犬種は分からないが大型で短い漆黒の毛並み。ぴんと立った耳とらんとした金の瞳が決して愛玩動物ではないことを物語っている。
「本当に無事でよかったです」
 白い少女は涙を流さんばかりに安堵の表情を浮かべている。
「それはもういいからさっさと本題に入れよ。夜が明けるぞ」
 その後ろで口を開いたのは犬だった。琴音は思わずぽかんと口が開いて目が点になる。
「話がややこしくなるじゃないですか」
「はん。こんな程度で腰抜かしてたらとてもじゃないが奴らを相手にはできないぞ」
 少女は犬をにらむが犬はそっぽを向いてパタパタと尻尾を振るわせている。
 気を取り直したように琴音のほうへ向き直った少女は、幾分トーンを落として口を開く。
「怪しい者ではないとは言えませんが、少しわたくし達の話意を聞いていただきたいんです」
 あまりに少女の目が真剣で、仮にも命の恩人と思われる相手を無下にもできなかったから琴音は話を聞くことにした。
「これからわたくしがお話しすることはにわかには信じがたいことでしょうけれど真実なのです。
まずはじめに自己紹介をさせていただきます。わたくしはゆきの、こちらはエルネスト。彼は現在でこそ犬の姿をしていますがもとは人間です。ですから言葉を話すこともできます。
わたくしがお話しますのは今宵あなたの身に降りかかったことについて、そして今後のあなた自身についてのことです。
あなたがあったあの男。簡潔に言うとあの者はヴァンパイア――吸血鬼と呼ばれるものです。ご存知ですか? ブラム・ストーカーという作家が書いた小説に代表される闇の種族を。
   ブラッドサッカー
   ノーライフキング
   ノスフェラトゥ――不死者
   夜の貴族
彼らは古来より様々に呼びなわされ多くの文献にも書き留められています。吸血鬼の呼び名が示すように彼らは人間の血を欲します。ヴァンパイアは人間よりも遥かに長い時を生き、強大な力を有しています。御伽噺とお思いですか?
 ヴァンパイアは現代にも存在しているのです。
 わたくし達はそのヴァンパイアを狩ることをしています。けれど、わたくし達だけでは彼らを完全に葬り去ることはできません。彼らを傷つけ退ける術は多くあります。銀、にんにくの花、白木の杭。けれどヴァンパイアの再生能力は一片の肉片からも一滴の血からも復活できるほどのもの。ヴァンパイアを滅ぼすためには特別な人間の力が必要なのです。
 ここからが重要ですからよくお聞きください。
 そのヴァンパイアを滅ぼす力があなたには備わっているのです。わたくしとエルネストは長い間あなたのような人を探していました」
 ゆきのが語り終えても琴音は言葉を発することができなかった。あまりにも今までの現実からかけ離れた内容であったから。
「今すぐにお返事をいただくつもりはございません。これから先、もしもわたくし達と共に歩むお心がおありでしたら今一度この場所を訪れてください。しばらく居りますから」

 

 エルネスト共に琴音は教会を後にした。破れた胸元を隠すように鞄を抱え、黒犬の一、二歩後ろを歩いていく。
「ゆきのの言ったことは気にするな」
 琴音の自宅の前あたりで不意にエルネストはそんなことを言い出した。
「え・・・」
「あいつが言うように俺達はお前さんみたいな奴を探してた。だが、それはあくまで能力の話であってお前さん自身のことじゃあない。分かりやすく言うとだな、同じように素質をもつ人間てのは無数とまでは言えないが他にもいる。だからもしもゆきのの話を聞いて妙な使命感をもったんならそれは単なる気の迷いだ。お前さんはいままでの平穏無事な日常を捨てることになるんだからな。
今夜のことは忘れろ。ゆっくり眠って明日の朝に妙な悪夢を見たと思え」
 一方的にそう言うとエルネストは琴音を置いて走り去ってしまった。

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