はじめ方とおわり方


 『はじまり』というのは自分で決めることが意外に難しいものである。いつのまにか始まった流れに、いつのまにか乗せられている。そもそも、この世に誕生する、ということすらも自分の意思ではないのだ。それなのに、その後の人生には『自己責任』というものがついてまわる。だったら、『おわり』の方法や仕様ぐらいは自分で決めたい。そう佐伯滋は考えているのである。
 かといって、人生の最期についての具体的なプランがあるわけではない。ただ、今の状況には非常に納得がいかないのである。
 佐伯滋は現在進行形で死に直面している。
 死んでしまうこと。けれどもそれは、彼女にとって決して恐怖ではなかった。ただひとつ佐伯が恐れたのは――


 自分がどういった状態にあるのか瞬時には理解することができなかった。まるで脳味噌が一回転した後みたいだと思った。意外なことにちっとも痛みを感じていなかった。
 奇妙にゆがんだ視界いっぱいに広がるベージュ色の繊毛。それがつい先ほどまで足元にあった絨毯であると分かるのに、ずいぶんと時間がかかったような気がする。ついでにいえば、佐伯は自分が倒れているということにも今ようやく気がついた。なぜだか頭が重いようだ。
 不自由な視界をめぐらせると、絨毯の上に白いいびつなものがいくつか転がっているのが見えた。どうやらそれらは花瓶か壷かほかのなにか、とにかく陶器のなれのはてであると分かっていた。砕ける音を自分はすぐ近くで聞いている。確信が先にあり、それが途切れていた過去を再生させる。

……。

 ドアノブを握る自分の手。
 開かれる扉。
 柔らかな絨毯の感触。
 振り返る。
 ぶれる視界。
 後頭部に重い衝撃。
 誰…。
 暗転。

……。

 どうやら殴られたらしい。理由はまったく分からないが。その事実に気がついたとたん、途切れていた全身の感覚が戻ってきた。
 ひどい吐き気。鼻腔に鉄さびの匂いが充満している。口腔には粘ついた感触。思うようにならない眼球をめぐらせると、黒いパンプスのつま先が見えた。ストッキングに包まれた細い足首。丸い膝。ピンストライプのスーツ。胸にかかる黒い髪。震える蒼白の白い顔。震える蒼白の若い女の顔。見覚えはない。
 胸元できつく握りしめられていた女の手が緩んでなにかが落ちた。優美なドレープを描く白い元陶器。筒状のそれは数秒前に佐伯の頭の上で砕けた一輪挿しの一部だろう。
 視線が無意識に下へとおちる。ただでさえ歪んでいる視界が光を失い狭まっていく。
 このまま死んでしまうのだろうか…。
…。
 脳裏をよぎるいくつかの影。
……。
 終わってしまう。
 終わって…。
 その瞬間にわきあがってきた感情の名を佐伯は知らなかった。しいてあげれば《怒り》だろうか。それにしたって何に対して腹を立てたのかは本人にも分からない。たぶん、あのとき自分を取り巻いていたすべてに憤っていたのだろう。ともかく、胸の中にあったのは、
「ここで終わってたまるか!」
という想いだった(後で聞いたところによると、声に出して実際そう叫んだらしい。本人はまったく記憶にないが)。小さな部屋で自分を待っていてくれているであろう恋人のことや、見ず知らずの人間に頭を勝ち割られる理由とか、その他もろもろのことを中途半端にしたままこの人生を終わるつもりはない。
 衝動のままに立ち上がる。とたんにぐらりと足元がふらつき、猛烈な吐き気がこみあがる。すぐさま膝が折れてしまいそうな状況だったのだが、佐伯は意地でふんばっていた。その様子は、頭からだらだらと血を流し、失血のために顔面蒼白、瞳の焦点が合っていないのにぎらぎらとしている、というものだったらしい。そんな恰好で絶叫しつつ起き上がる、その姿はそうとう恐ろしいものだったようで、ただでさえやむをえず殺人を犯した(結局は未遂になったが)ばかりの善良な人間にとってはひどい衝撃だった。だから、佐伯を殴り倒した女性が悲鳴もあげずに卒倒したのも当然かもしれない。自分の容姿がどうなっているのか佐伯自身には分からないので、「ひとの顔を見て気絶するなんて失礼な」と、いささかのんきなことを思っていた。脳みそに血がまわっていなかったせいかもしれない。
 その直後に駆けつけてきた知人に佐伯は保護され、速やかに病院に搬送された。一時はずいぶん危険な状態にもおちいったが、後遺症もなく退院することができた。そういうわけで、不本意な形で終わりかけた佐伯の人生は何とか無事につながることになった。
 ただ、治療のためにそられた髪がのびるまでにけっこうな時間がかかり、しばらく佐伯の不機嫌な日々が続くことになった。

<了>

 

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