世界でもっとも幸福な男


 大地には潅木と草原が続き、空には青に白がまだらに浮かぶ。
「あ!」
 甲高い声があがる。
「どうしたの?」
 澄んだ落ち着きのある声が尋ねる。
 先に声を発したのはルー。白い龍の幼体である。背中に羽はあるがまだ飛ぶことはできない。
 問い掛けたのはシェリ。人間の少年である。若いが穏やかな表情を浮かべている。
「人がいるよ」
 ルーの言葉にシェリも同じ方向を見る。
「何も見えないね」
「でもいるよ」
「じゃぁ、行ってみよう」
「うん♪」
 シェリの言葉にうれしそうにうなずくと、ルーはぱたぱたと尻尾を揺らして駆けていく。
「あ、人だ」
「ね、いたでしょ」
 十分ほど歩いてシェリの視界にようやくルーが見たものが見えてくる。
世界最高の生物である龍の視力は人間とは比べ物にはならない。ルーに見えてシェリに見えなかったのは当然だろう。
「男の人だ。座ってる」
「何してるのかな? 気になるよ」
 ルーはそう言うと、一目散に男の方へ行ってしまう。シェリは困ったように笑うと後を追う。
「おじさん、おじさん。何やってるの?」
 物怖じせずにルーは手ごろな岩に腰をかけている男に話し掛ける。
「おや珍しい。龍かい」
 男は足元のルーに視線を向ける。その焦点はどこかあやふやである。
「お話をしていたんだよ」
「誰と?」
 男の周囲には人影はない。
「彼女と、わたしの大切な人とだよ」
「誰もいないよ」
 首を傾げるルーに男はそっと自分の胸を指し示す。
「いるんだよ、ここに」
 ルーは困ったようにシェリを見上げる。シェリはルーに軽く肩をすくめて見せて男を見つめる。
「そういるんだ、彼女はここに。わたしの中に。
わたしは彼女を愛していた。彼女もわたしを愛していた。
わたしたちはいつも一緒だった。離れることなど考えられなかった。ほんの一ミリでも、一分でも触れ合っていないと発狂してしまいそうだった。それほど愛し合っていたんだ。
けれど、いつかは離れてしまう。もし病気にかかってどちらか一方がどちらかをおいて死んでしまったら? そんなことを考えると夜も眠れなかった。
だが、わたしたちはすばらしい解決法を思いついたんだ。
そうすれば決して離れることはなくなる、すばらしい方法を。
そしてわたし達は真実ひとつになったんだ。
これで悩む必要はなくなった。
わたしは幸せだ。
わたしはとても幸せだ。
わたしはこの世でもっとも幸せだ」
 男はぶつぶつと繰り返す。その目にはルーもシェリも映っていない。ただ、今にも泣き出しそうな満面の笑みを浮かべているだけ。
「ルー」
 シェリは困惑気味の仔龍に声をかける。
「行こう」
「あ!」
 ルーが声をあげる。
「どうしたの?」
 シェリが尋ねる。
「家があるよ」
 ルーの言葉にシェリも同じ方向を見る。
「何も見えないね」
「でもあるよ」
「じゃぁ、行ってみよう」
「うん♪」
 しばらく行くと、ぽつんと建つ一軒の家にたどりついた。小ぢんまりしたその家は玄関戸が開け放しになっている。
「誰かいませんかー?」
 ルーが玄関から首を突っ込んで声をかけるが応答はない。
「誰もいないよ」
「みたいだね」
 ルーとシェリはそのまま家の中へ入っていった。
「写真だ」
「見せて、見せて」
 シェリはしゃがんでルーにチェストの上の写真立てを見せる。
「あれ、この人さっきのおじさんだよ。女の人が一緒に写ってるね」
「そうだね。この人がさっき言ってた恋人だろうね」
 シェリは写真を戻すと立ち上がり、ぐるりと部屋の中を見回した。
「でもいなかったよその女の人。もう離れないってあのおじさんは言ってたのに」
 ルーの言葉を聞きながらシェリは食卓に近づく。
「・・・いたんだよ、あの人と一緒に」
 テーブルには深皿がひとつ。骨が入っている。
「ねえ、すごいよ」
 足元のルーの言葉にテーブルの下を覗くと、そこにも骨が積まれている。
「ずいぶんたくさんだね」
「・・・」
 鍋もあった。その中にも骨が入っている。
丸い骨。大きなふたつの穴と、その下の小さなふたつの穴。両手で抱えるのにちょうどいい大きさ。
「骨だね」
 ルーは尻尾の先で骨の山をつついている。
「人間の骨だね」
「誰のかな?」
「多分あの男の人の恋人だろうね」
 シェリは立ち上がる。
「食べちゃったの?」
「そうだね」
「なんで?」
「好きだから、愛していたからだろうね」
 ルーはシェリを見上げて尋ねた。
「シェリも好きな人を食べちゃうの?」
「しないよ。そんなことをしたら、好きな人を見つめることも話すことも触れることもできなくなるじゃないか。そうなったらとても不幸だよ」
「ふーん」
「ルー」
 シェリは不思議そうに見上げる仔龍に声をかける。
「行こう」

<了>

 

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