『恐ろしい獣』


 昔、あるところに森がありました。森の中には獣が一匹すんでいました。獣はとても恐ろしい姿をしていました。心の中も外見のとおりにひどく凶暴なものでした。森の中に人間が入り込むと、獣は頭からばりばりと食べてしまうのです。どんなに命乞いをしても獣は聞く耳をもちません。小さな子どもも、若い男の人も、きれいな女の人も、賢いお年寄りも、獣と出会ってしまった人はみんな食べられてしまいました。周囲の村や町では大切な家族を獣に食べられてしまったという人がとても多くいました。そのため獣はたいそう恨まれていました。
 人々は王様に、どうかこの恐ろしい人食い獣を退治してくれるようお願いしました。王様も大勢の家来を獣に食べられていました。ですからすぐに、獣を退治した者には褒美を与える、というお触れを出しました。これを聞いて我こそはと思う者が国中からやってきました。けれど、獣はとてもすばしっこく強かったので、たくさんの勇敢な者たちは逆に獣に食べられてしまいました。そうして獣は退治されないままに長い時がたちました。

 ある時、ひとりの狩人が森にやってきました。もちろん凶暴な人食い獣を退治するためです。その狩人はそれまでにも人を襲う獣をたくさん倒しておりました。そして多くの人々に感謝されていたのです。そのため、狩人やってくるという話を聞いて、近くの村や町は大変な騒ぎになりました。これであの悪い人食い獣がいなくなる、とみんなでお祭りをしたのです。
 狩人は森に入るとほどなくして獣を見つけました。もちろん獣の方も狩人を見つけています。獣はいつものように襲いかかって、頭からばりばり食べてしまおうとしました。狩人は飛びかかってきた獣を素早くよけます。そして、くるりと背を向けると逃げ出したのです。獣はここぞとばかりに後を追いかけました。けれどこれは狩人の作戦だったのです。狩人の逃げた先には罠が仕掛けられていました。なにも知らない獣はまんまとこの罠にかかってしまいます。罠は獣をひどく傷つけました。痛みのあまりに獣は吠えました。こんなに大きな声で吠えるのは生まれて初めてのことでした。それほどまでに痛かったのです。動けなくなった獣に狩人はとどめを刺そうとしました。けれど獣も負けてはいません。死にものぐるいで罠を抜け出すと、ふたたび狩人に襲いかかります。狩人はすぐさまつがえていた弓矢を放ちました。放たれた矢は狙いたがわず獣に刺さります。これはかなわないと思った獣は逃げ出しました。けれど、狩人は後を追いかけません。傷ついた動物はいざというときにとても危険であることを知っているからです。
 獣は体中から血を流しながら逃げていました。やがて森の泉にたどり着いた獣はようやく足を止めました。水の中で傷を癒すのです。獣が泉で中でじっとしていますと、向こうの方から誰かがやってきます。初めは狩人が追いかけてきたのかと思いました。けれど違います。現れたのはひとりの少女でした。なぜか杖をついています。そしてまっすぐ獣のいる泉に向かってきます。獣はこの少女を食べてしまおうと考えました。狩人を食べそこねてお腹がすいていたのです。それに、狩人にひどく傷つけられてとても腹が立っていたのです。少女をばらばらに引き裂いてうっぷんを晴らしてしまおうというのです。
 ざばりと泉からあがると獣は少女の前に飛び出しました。獣は、きっと少女が悲鳴をあげて腰を抜かすだろうと思いました。今まで出会った人間はみんな獣の姿を見ると恐れおののくのです。獣が少女の前に立ちふさがると、少女は足を止めました。けれど、獣が思ったように悲鳴をあげませんし腰も抜かしません。ただ不思議そうな顔で獣を見つめるのです。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
 小首をかしげて少女が問いかけます。どうやらこの少女は目が見えないようなのです。獣はかまわず食べてしまおうとしました。お腹がぐうぐう鳴っています。すると、
「お腹がすいているのですね」
 少女はそう言って、持っていた籠からパンを取り、獣に差し出します。獣はひどく驚きました。こんなに優しい言葉をかけられたのは初めてだったのです。今まで会った人間は獣の姿をひと目見るなり悲鳴をあげたり、逃げ出したり、ひどいときには攻撃をしてきたのです。そうして人間に嫌われているうちに、だんだんと獣の方も人間が嫌いになっていきました。そうして今では人間に会うとすぐさまばりばりと食べてしまうようになったのです。けれど、この少女は獣が恐ろしげなうなり声をあげていても、にっこり笑ってパンを差し出すのです。
 獣は少女からパンを受け取りました。本当はこんなもそもそした食べ物はちっとも好きではありません。けれど獣は、このパンは今まで食べたどんなものよりも一番おいしいと思いました。そして生まれて初めてお礼を言ったのです。
 少女は森に薪を拾いに来たのだと言いました。いつもは母親が来るのだけれど、足を痛めてしまったのだといいます。そのために不自由な体で少女は森に来たのです。獣に少女を食べようという気はまったくなくなっていました。それどころか、少女の手伝いをして最後には森の出口まで送っていったのです。もちろん人目につかない場所までですが。少女は仕事がはかどったのでとても喜びました。それからも少女はたびたび森を訪れました。そして獣はそのつど少女の手伝いをするのです。少女は『優しいむく毛さん』と呼んで、獣の耳の後ろをなでたり歌をうたって聞かせてくれます。そうされて獣はとてもうれしくて幸せでした。少女と会うようになってから獣は人間を襲っていません。少女が持ってきてくれるパンの方がずっとずっとおいしいと思うのです。

 そのころ、大勢の武器を持った人々が森に向かっていました。先頭にはあの狩人がいます。森から戻った狩人は、獣の傷が治っていない今こそ倒し時だとみんなに呼びかけたのです。こうして獣に恨みをもつ村々、町々の人々が武器を手に集まったのです。少女がいつものように森に行きますと、泉のそばで獣を退治に来た人々と会いました。狩人は目の見えない少女が人食い獣のいる森にやってくるということに驚きました。少女は自分を助けてくれる優しい獣を倒そうという人々がいることに驚きました。少女はみんなに、今の獣はとても心優しいこと、人を襲ったりしないことを訴えました。けれど誰ひとりその言葉を信じません。それどころか、この少女は獣に取り憑かれてしまったのだと言います。獣の仲間ならば一緒に倒してしまおうと言い出す者までいます。
 獣は木の陰からその様子を見ていました。そのまま帰ってしまおうとしたのですが、少女が人々に取り囲まれたのを見てすぐさま飛び出しました。けれど、このまま少女を助けて人々を傷つけたのでは、やっぱり少女は獣の仲間なのだと思われるでしょう。そう考えた獣は少女に襲いかかるふりをしました。大きく口を開け、爪を振りあげて恐ろしい声で吠えました。狩人は素早く矢を放ちました。獣はよけませんでした。矢は深々と突き刺さり、獣はどうと倒れます。人々は手にした武器で獣にとどめを刺しました。その時に飛び散った血がふた雫、少女の両目に入りました。人々は少女が獣にだまされていたのだろう。やっぱり悪い人食い獣だったのだと言いました。それを聞いて獣は安心しました。ひどく苦しく痛いけれど、とても満ち足りた気分でした。大好きな少女を助けることができたのです。
 獣が死んでしまうと、狩人と人々は歓声をあげました。それを聞いて、獣が倒されたことを知った少女は泣きました。ぽろぽろとこぼれる涙が目に入った獣の血を洗い流します。すると少女の目が見えるようになったのです。少女は初めて獣の姿を見ました。それはそれは大変に恐ろしげなものでした。けれど少女はちっとも怖いとは思いません。血を流して倒れた体がぴくりとも動かないのを見て、また新しい涙がこぼれてくるのです。悲しくて悲しくてしかたがないのです。
 悪い獣がとうとう退治されたとお祭り騒ぎになりました。みんなでごちそうを食べ、歌って踊って喜びの声があふれます。獣の体は皮をはいで王様への贈り物にされました。獣を倒した狩人は勇者としてたたえられました。お祭りは何日も何日も続きました。

 少女はそのころひとりで森におりました。初めて獣と出会い、獣が倒された泉のそばです。少女は、獣の血が染みこんだ土を盛り上げてお墓を作りました。それはよくよく気をつけなければ分からないほど小さな小さなお墓です。少女は歌をうたいます。誰も聞く者のない弔いの歌です。静かに静かに歌声は流れていきました。
〈了〉

 

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