『My favorit color is』


「問題です。僕の好きな色はなんでしょう?」
 カーテン越しに朱色の光が入り込み、部屋を鮮やかに染め上げる。
「それは熱くて冷たくて、綺麗で汚い」
 今は昼と夜のはざまの刻。闇の活動が活発になりはじめ、人の心のガードが緩む時。逢魔が刻と呼ばれるこの間隙は、人が魔に見入られやすい。
「君ももっている”もの”だよ」
 目の前にいるのははたして魔に憑かれた人か?自分を惑わす魔か?
「とても大切なものの色」
 分からない、分からない。ただ、自分は眼前の相手が無性に怖いのだ。

 

 休み時間に廊下へ出た瞬間、亜取(あとり)は後ろから声をかけられた。振り返ると、小柄な女子生徒が立っていた。亜取は彼女に見覚えがあった。隣のクラスの波代(なみしろ)である。
 波代は、
「ちょっと」
 と言うと、亜取の制服の袖をつかんだ。そのまま意外なほど強い力で引っ張っていく。彼女は唇をきつく結んで、その横顔はめったに見ることのない厳しいものだった。
 波代が亜取を連れて来たのは階段だった。昇降口とは逆方向にあり、北側という理由もあって、普段から人通りがあまりない。
「桐葉(きりば)くんのことなんだけど」
 亜取の袖を離すが早いか、波代はそう言う。
 桐葉は亜取の友人である。彼らの関係は幼稚園時代にまでさかのぼることができ、いわゆる幼なじみの関係だ。桐葉の両親は共働きのため、亜取は日が暮れるまで一緒に遊んだ思い出がある。そのため、しばしば亜取は母親に叱られたが。
 ひとりでいることが多かったせいか、桐葉は絵を描くことが趣味だった。その後、当然のように中学・高校と美術部に入る。今では趣味は才能の表現となり、いくつもの賞をとるほどになった。
「あいつがどうかした?」
 いつにない切羽詰まったものを感じさせる波代に、亜取はとまどいを隠せない。
 波代は唇をきゅっと結んでから、
「好きな人いるの?」
 亜取は波代の問いかけに目をぱちくりさせる。しかし、彼女の真剣な眼差しは変わらない。
「いない、と思うけど…」
 とたんに波代の表情が普段の穏やかさをとりもどした。頬が赤らんでいるのはさっきまでの自分の行動に照れを感じているせいだろう。
「桐葉くんには言わないでね」
 上目遣いで訴える波代に、亜取は笑みを返す。
「分かってる」
 亜取の答えに、波代は礼をのべて帰っていった。
 その後ろ姿を見送りながら、うまくいけばいい、と思っていた。それは、普段はおとなしい波代のせいいっぱいな面を垣間見たせいでもある。同時に、最近スランプ気味の桐葉を支える相手が必要だと感じてもいたためだ。相手のすべてを肯定し、よりそう存在に、波代ならばなれるだろう。亜取はもちろん親友として励ますことはあるが、間違いを指摘することもある。そのことが友人を追い詰めていないか危惧しているのだ。
 だから、波代を応援するのである。
 数日後、桐葉と波代が並んで下校する様を目撃し、亜取は安堵の笑みを浮かべた。
 すべては何事もなく、正常に時が刻まれているように見えた。ただ少しだけ、波代が『知り合い』から『友人の彼女』に変わったぐらいで。それも大したことではなかった。
 しかし、日常は唐突に非日常へと変わるもので。けれど、振り返ればその予兆があったと感じる。そして、なぜ気付かなかったのかと嘆くのだ。だがそれも所詮は後付けに過ぎず、実際にはなにも分かっていないも同然なのである。
「欲しい色が出ないんだ」
 真っ白なキャンバスを前に桐葉が言った。
 傍らには彩色されたキャンバスがいくつも放置されている。そのどれもが大きく切り裂かれていた。
「大切な色なのに」
 表情のない顔で桐葉はつぶやく。
「好きな色なのに、納得できるものが出ないんだ」
 油絵の具独特の匂いがたちこめる美術室。まもなく夜闇に覆われる時間。
 亜取を見ずにキャンバスだけを桐葉は眺める。もはや友人の存在すら忘れてしまっているようだった。
 亜取がなにも言えずにいると、扉が開く音がした。
 決して大きな音ではなかったが、思わず亜取はその方向を振り返っていた。
 そこには波代がいつもの笑顔で立っていた。
「どうしたの?」
 空気の異常さを感じたのだろう。
「なんでもないよ。帰ろうか」
 桐葉はさきほどの無表情さがうそのように、優しい笑顔を彼女に返す。それはまさに恋人に対する態度そのものだった。
 亜取は正門でふたりと別れた。なぜかどうしても一緒にいることができなかった。その理由を問われても、亜取は明確に答えることはできない。違和感、戸惑い、或いは恐れ。
 黄昏刻あるいは逢魔が刻。
 昼が終わりを告げ、夜へと変わる狭間の時間。
 わずかな隙間をぬって差し込む朱色の光を横目で見ながら、亜取は美術室へと向かっている。人気のない廊下は異様なほどの静寂が支配している。
 美術室の扉を引き開けると、カーテン越しに朱色が部屋に満ちている。
 今まで以上の静寂と、鼻孔に届く錆の匂い。その源は…。
 小柄な体躯、きっちりと結ばれた髪、セーラー服のリボンの白。けれど、それ以上に肌が白くなっている。
 深紅の血の海に横たわる姿、そのコントラストがひどく鮮やかだった。
「波代…」
 茫然とつぶやいた。
「みつかったんだよ」
 喜色が溢れる声に、緩慢な動きで頭を巡らせる。
 桐葉がいた。亜取はひざから力が抜けていくのを感じる。桐葉は紅に染まっていた。右手のパレットナイフからは今だに鮮血が滴っている。
「欲しかった色がね」
 笑顔で語るその姿は普段とまったく変わらない。
「なんだか分かる?」
 なにも答えられない。
「問題です。僕の好きな色はなんでしょう?」

 

〈了〉

 

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