『8年前の話』



 夕闇押し迫る黄昏時。風がさして長くもない灰色の髪を乱していく。真正面から吹き付けるために土ぼこりが入らないように目を細めながら、セージは歩を早める。したたかに顔面を叩く砂粒に忌々しげに舌打ちをした。とたんに口内にじゃりじゃりとした感触。唇をきつく引き結び、手近な宿屋につま先を向けた。
 適当に選んだ宿はそこそここぎれいで手の込んだ食事がうりだった。おかげで相場より若干高めの宿賃を取られた。しかし、今日は仕事をひとつこなしたので財布にはさほどの痛手はない。仕事自体も商人の馬車をこの街まで護衛するという簡単なものだった。街道に出没する野盗を警戒しての依頼だったが、結局剣を抜くことなく済んだ。実際に襲われていれば問答無用で抜刀していたが。
 通されたひとり用の部屋は旅行者が利用することもあるのだろうか、単にひと晩を過ごすだけにしてはこのうえもなく上等だった。剣をベッドのそばの壁に立てかけ、鎧を脱ぐ。一般女性の平均並の体格ということは、剣を扱うには少々心もとない。装備を外して軽くなった体は妙な心細さを感じさせる。子供のころは体が弱く貧血や立ちくらみはしょっちゅうだった。今は格段に体力はついたはずだ。それでも乗り物酔いは治らなかったが。おかげで今日の仕事は辛かった。いつ野盗が出るかと軽く緊張していたためにいくらかはましだったが。
風に巻き上げられた髪を整えようと手櫛で梳くと砂がぱらぱらと床に落ちた。息をひとつ吐き出して、ベッドを見やる。シャワーを浴びる前に一休みしたいが、このままではせっかくのシーツが砂まみれになるだろう。仕方なく、窓際に置かれた椅子に腰を預けた。
 窓のガラス越しに外を見るとまだ風は吹いていた。同時に窓に映った自分の顔も視界に入る。肩口で切られた灰色の髪。空色の双眸は少しきつめ。まっすぐに結ばれた唇はめったに弧を描くことはない。我ながら愛想のない顔だと思う。しばらく虚像の自分とにらめっこをしていたが、がたがた、という音で視線を窓の向こうへと向ける。どこかの店先に積んであったものだろうか、木箱が数個、地面を転がっていく。風の勢いは先ほどよりも強くなったようだ。窓の桟が振動する。この突風はこの地方のこの時期にふく季節風のようなものだという。まるでこの世のすべてを吹き飛ばそうというかのようだ。
 (こんなものじゃなかった、あの時は)
 ぼんやりと考えて、『あの時』というのがいつなのかと記憶をたぐる。
(15・・・16の時だったか? いや、16だ。誕生日の三日前で危うく歳を取れなくなるところだったと思ったのだから。・・・そうか、もうあれから8年になるのか)
 視界が徐々に狭まっていく。彼女の意識は急速に過去へと落ちていく。


 気を失う直前に見えたのは馬鹿みたいに青く澄み切った空だった。腹の底から笑いがこみ上げ、表情に出る前に意識が途絶えた。
 目が覚めて、見えた空は赤かった。自分がどれほどの時間をこうしていたのか思案する。確か太陽は西に少しずれていただけだったと思う。そうなるとずいぶんになる。意識が徐々にはっきりしてくるにつれて、体のそこかしこから痛みが伝わってくる。それは何よりも生の証。よくも生きていたものだと、他人事のように感心した。背中が最も激しく痛むので、彼女はとりあえず起き上がることにした。
 立ち上がって周囲を見渡して、彼女は息を吐き出した。それは単なる呼吸と嘆息の中間の問のような吐息。果たして、ほんの数時間前まで村があった場所だと信じる者はいるのだろうか。家々を構成していた木材はことごとくばらけ、まんべんなく散乱している。地面から垂直に立っているのは彼女以外には何もなかった。共有の井戸の端に生えていたケヤキもない。
 村を襲ったのは局地的な竜巻だった。発生から彼女がその他諸々とともに空に巻き上げられるのにそう時間はかからなかった。竜巻は村を完膚無きまでに蹂躙すると消滅した。彼女がどれほどの高度まで飛ばされたのか定かではなかったが、生きているのは奇跡に等しいだろう。それどころか骨折すらしていない。着ているものはずたずただったが。顔に落ちかかる髪をかきあげると、指の間に数本残った。灰色の髪の毛が赤いまだら模様に染まっている。無傷というわけにはいかなかったようだ。
 ふと、彼女はあたりの静けさに気が付いた。ほとんど無音に近い空気。普段よく耳にする音がしないというのは人を容易に不安に陥れる。彼女はもう一度あたりをよくよく見回した。そして納得する。静かなのは当たり前だった。彼女以外周囲に音を立てる者も声をあげる者もいないのだから。夕闇が押し迫り、ものの輪郭があいまいになっている。それでひと目では気づかなかったらしい。それでも目を凝らせば見えたのだ。瓦礫の隙間のあちこちから飛び出す人間を。
(こういう場合は大声で泣き出すものじゃないのか?)
 彼女は自問した。少なくとも、過去に読んだ小説の主人公は家族を失った際に狂乱といえるほど嘆いていた――その描写は延々5ページにも渡っていたのだが。彼女は多少ほうけているが涙は流れていない。というよりも泣いた経験があまりなかった。それは人前では感情を露わにしてはいけないという祖母の教育のたまものだった。祖母の父だか祖父だかがかつて宮廷に仕えたことがあったという。そのせいか祖母のプライドは非常に高く、それを子供や孫に受け継がせようとしたのである。おかげで彼女は自分でも愛想がない人間に育ったと感じている。閉鎖的かつ共同作業で成り立っている村においては自意識が高いというのはデメリット以外の何物でもないのだが。
 周囲の色は徐々に黒味を増していく。このまま立っていてもらちが明かない。まだ、外で寝て次の日を無事に迎えるには無理な季節だ。どうにかしなくてはと思いながらも明確な当てもなく、とりあえず彼女は足を踏み出した。しかし、やはり動揺はしていたのだろうか、一歩も進まぬうちにつまずいて無様にひざをつく。とっさについた手からしびれるような痛みが走った。
 立ち上がりかけて、彼女は背中にひやりとしたものを感じた。同時に肌を刺すようなちくちくとした感覚。まるで刃物を押し当てられているようだと思う。それは後に殺気や殺意というものだと学んだが、当時の彼女には知るべくもない。ただ不快だった。漠然とその感覚が放たれている方を向く。そこは村に隣接する森。豊富な資材源であり給水源である。森もわずかながら竜巻の影響を受けたものか数本の木々が大きく傾いている。その奥から彼女に不快感をもたらした何かがいる。彼女の脳裏を掠めたのは、先日森に入った子供が狼の群れに襲われた、ということだった。
 侵入を阻む柵も、武器を片手に追い立てる者もなくなったこの場所は彼らにとって絶好の狩場だろう。いや、狩場どころではない無抵抗の屍がごろごろしたここは、餌場だ。この中であっては怪我をした少女は生きていようが変わりはない。彼女は考える、狼に喉笛を噛み切られれば少し遅れて家族の元にいけるだろう。それもまた選択肢のひとつだ。あるいは・・・。
 木々の隙間から自分を見つめているであろう飢えた獣の瞳を見つめ返す。静かにけれど迅速に、彼女はしゃがみこみ求めるものに手を伸ばす。先ほど転んだ際に見つけていた物だ。おそらくはどこかの家の護身用のものだろう。さほど値の張るものではない大量生産品の銘もない手軽さが自慢の両刃の長剣。しかし、15歳の少女の手には少し余るものだった。それを拾い上げ立ち上がる。料理用の包丁や薪を切るための鉈は使ったことがある。だが、純然たる殺傷目的の刃物を握るのは初めてだった。
 ためらいもなく鞘を取り払い、白銀の刃をさらす。彼女は息をひとつ吐き出してささやいた。
「悪いが、わたしは死にたがりじゃない。
生き延びさせてもらう」
 それが彼女が自ら剣を手に戦うことを決意した初めての瞬間だった。
 夕闇押し迫る黄昏時。8年前の出来事である。

<了>

 

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